详细根据便是上面所列的质料:
这句话是秀吉对将士的鼓励,意义是到时候他会亲身带领马廻众渡海作战,当然,以当时的身材状况来看,不过是嘴上说说罢了。
(全羅道を残さず悉く成敗し、忠清道や京畿道もなるべく攻略せよ。)
汗青上,稷山之战过后日军全线后撤,有人不睬解,眼看着打到汉城了,为何临阵畏缩呢?
日本軍を1599年に再度朝鮮に调派する号令を発します。(很较着,是打算两年后再度打击,以劳敌师)
1、赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。
是以,本书接下来将会以此作为基调,接下来的章节如果呈现与此相干的事件,将不再多做解释,请大师了解。
附原文:
そんな中、秀吉は死去し、1599年の再出兵の計画は流れます。秀吉の死とは関係なく、日本軍と決戦を計画していた明軍は本土から大増援を得て、倭城攻略に動き出します。在番の日本軍の動きを抑えるため、三路に分かれて倭城に攻めかかりましたが、大敗します。(意义大抵是来年的反攻打算因为秀吉的死而流产,日军的出兵打算也因为明朝救兵的到达而被迫中断,而后便是蔚山、泗川、顺天等地的日军开端败退了。)